ネコの尻尾を追いかけて

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映画『忍びの国』感想(※とってもネタバレあり)

※ネタバレあり※
 
 満を持して漸く公開された、映画忍びの国
“満を持す”とは、弓をいっぱいに引きしぼって放つ瞬間を待つ、という意味を持つ、史記(李将軍列伝)由来の言葉。
そう、正に、大木をも真っ二つに割り裂く大膳(伊勢谷さん)の五人張りの弓の如くに、引いて引いて、そして、呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーンな、待望の大野智主演映画である。
たぶん多くの大野くんファンの、こんな役を見たかった!が盛り込まれた役な上に、
あれほど多才なスペックを持つ「芸能」「人」でありながら、何も出来ませ~ん!やってませ~ん!といった様相で忍んで忍んで忍びまくる大野くんの、実は秘めたる努力の姿勢やそれこそ身体能力を、スタッフ共演者メディアがぐいぃっっと引っ張り出してくれる機会ともなったわけなのだ。
世間さまはそんなこと気にしない?そんなのどーでも良いのである。
おたくにとっての祭じゃ祭じゃ~
 
 
さて、この映画。
どこかの媒体で制作サイドが「ポップな時代劇」と表現されていたが、個人的には初見から一貫し、何度観ても「ロックな時代劇」だなぁという感想。
反逆、自己矛盾、魂の叫びが登場人物達から終始ヒシヒシと放たれていて、尚且つそれをロックテイストな音楽がタイトル字幕が出た瞬間から後押ししているのだ。
「ポップ」さと言えば、要のシリアス部分をその陰影により一際印象深くさせるコミカルな演出パートや、それによる作品全体のテンポの良さ、そしてまるで舞い踊るかのように軽やかな無門のアクションシーン辺りがそうだろうか。
 

この映画の秀逸さは挙げればキリがないけれど、まず125分の尺の中に、原作のポイントが綺麗に抑えられ収まっている点、さすがは原作者による脚本
それを言う人物の差し替えはあっても、台詞も大切にそのまま取り入れられていたりする。
削られた登場人物達も映画では形を変えて登場しているが、信長を最後まで登場させなかったのは確かに大成功だったように思う。
監督の意向もあったようだけれど、上の方にいる姿の見えない“魔王”の存在感に納得。
(映画『忍びの国』に織田信長が登場しない“ある”理由) https://dot.asahi.com/dot/2017062900060.html
 

それから、主要な登場人物全員にドラマがあり、善悪どちらに見える立場にもキャラ立ちした魅力が満載で、すなわちがお芝居が素晴らしい。
談春さん演じる悪の華のような三太夫の迫力も素晴らしいし、十二家評定衆の真の人でなしぶりを体現しているような、でんでんさん演じる下山甲斐の不気味さも相当なもので流石のキャスティングである。
 
平兵衛の父である、この下山甲斐
昔、貴志祐介『黒い家』を読んだ時の背筋の寒さをちょっと思い出した。でんでんさんの飄々としたお芝居により映画では更にそれを感じさせる。
 
あと、今春の連続ドラマ『CRISIS 公安機動捜査隊特捜班』の最終回で、息子を政治の道具とし、「餌として提供しよう」「幸い僕には、息子が2人いるから、1人いなくなっても、どうにかなるよ」とニコやかに言い放ったサイコパスな総理。
同じ種類の人間ではないかなと。
大膳が予見した「虎狼の族(ころうのやから)は天下に散った」現代の姿があの輩達とも言える。
 
そう言えば、CRISISはアクション監督が『忍びの国』ではスタントマンを務めているという繋がりがある。但し、忍びの国は監督いわく、CGも使わずとも動ける役者達が揃ったため、98%が生演技でほぼノースタントとのこと
 

そして、映画を観た多くの方々が言われているように、一番の見所はやはり無門と平兵衛の接近戦での死闘アクション

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330手を覚え三日間かけて撮影されたという、泥臭いのに華麗な、あの凄まじいシーンだけにでも映画1本分の金を払える!と思う程に見応えがあるアクションなのだけど、
まさかアクションを見て、こちらまで涙や鼻水と死闘する日が来ようとは。。。

正に『魂』と『魂』のぶつかり合い、そして削り合い。
そのほとばしりが刃物の衝突が散らすあの火花のようにも見えて。スクリーンの中から伝わって来る彼らの感情の波に飲み込まれ続けた。
 
ヘラヘラ笑いながら金の為に眉一つ動かさず人を殺戮する殺人マシーンだった無門、中村監督いわくの当初の原作イメージ『爬虫類みたいに不気味』な無門が確かに、あの一騎討ちの始めには存在していた。

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それが平兵衛との死闘の中で徐々に徐々にその表情やオーラを、実に繊細に見事に変化させて行く。物言わないはずの目から哀しみが零れ落ち始める。
あれだけ動きながらそのお芝居をする余裕があるわけである。
おまけに、過ぎても観客には何がなんだか分からないから速度調節する必要もあったとは大野くん談。
 
彼がよくスタッフや共演者に評される中に、相手のお芝居の空気を読み即座に対応するライヴ芝居の上手さというものがある。
中村監督はそれを、反射神経もあるけれど脚本を読み込んでいないと出来ない事だと言われていた。
大野くんはどんな変化球を投げられても受けて面白くして返す、と言われた、死神くん共演者の松重豊さんのコメントも似たような意味ではないかと思う。
 
だから、彼の特に1対1の対峙芝居はいつでも凄いパワーを感じる。勿論、相手の役者さん達の技量もあってこそ成立する、呼応し引き出し合うお芝居。
魔王最終回鍵のかかった部屋最終回そして忍びの国、また新たに三つ目となる約10分間の宝物をいただいた。
 

※ここから先は更に原作も含んだネタバレを盛大にしまくります故、ご了承ください。
 
 
 
 

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無音の中に二人の息遣いだけが響き渡る戦いの末、「わしは…人として、死ねる」平兵衛がそう穏やかに微笑し、その心の鼓動を永遠に止めた時の、無門の表情が忘れられない。
平兵衛の亡骸に向かってポツリ可哀想なやつだ…」と呟いて去る無門はもう、お国と京に逃げようとした山道で“ネズミ”を他人事のように可哀想に」とへらへら笑っていた無門ではなかった。
そこから最後、お国可哀想に…」と言われ、その唯一の存在が腕の中から零れ落ちて行くのを、もう黙って受け止めるしかなかった無門の孤独な絶望へと繋がって行く。

あのシーンの無門の初めて取り乱した絶叫もまた、何度観ても胸をキリで突き刺されたように響き抉られる。
 

無門お国を抱き上げて人々の前から姿を消す間際に残した台詞
「わしは…なんという馬鹿者じゃ…、おのれらは、人間ではない」
は、冒頭の下山砦で無門に弟を殺された平兵衛が伊賀者に絶望して発した
「わしは…なんという馬鹿者じゃ…、今になってようやく気付くとは…、この者共、人間ではない」
この台詞とここに来てピタリ一致する。
 
平兵衛との死闘の後、平楽寺で無門により十二家評定衆の胸に打ち込まれた武器は無門の短刀ではなく平兵衛が遺したクナイだった。 

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「何かわかんねーが俺は滅茶苦茶腹が立ってんだよ」彼らに怒声を浴びせていたあの無門には平兵衛の魂が重なっていたのだろうか。
無門が上忍として生まれていたなら、その姿が或いは平兵衛だったのかもしれない。
誰にも愛されず孤独に育ったのに愛を知っている人だった。お国に一心に注ぐそんな人心を、本来隠しきれないほど潜在的には持って生まれた人だった。
 
 
原作『忍びの国』和田竜 著(新潮文庫)より抜粋
 
無門が絶えずへらへらと深刻さを避け、あらゆる物事に対して斜に構え、他人の不幸にさえも小馬鹿にしたように冷笑を向けるのは、自らの心を守るためにはそれが不可欠なことだったからだ。この男は自らの心を欺き続けていた。
この男が、もしも自らの半生を直視していたならば、とうの昔に狂い死にしていたことだろう。この男の半生は、直視するには余りに過酷であった。やがて一人前の忍びに成長し、「無門」という道具としての名を与えられたとき、この男は自らを韜晦していることにも気付かぬ男になり果てていた。
 
 
だから上忍の平兵衛が言う「銭より大切なものがあるのだ」にも、無門「わかってたまるか」と答える他なかった。
己の罪に目を向けず自覚せず、人でなしでなければ生きられなかった無門は、平行世界での分身のような平兵衛との対峙を経て、
唯一彼の前に立ちはだかる堅牢な門、すなわち弱みであったお国「可哀想に」の言葉で「可哀想」な自分を自覚し、人となった。
 
ゲルダの涙で心に突き刺さった鏡の欠片が溶けた雪の女王のカイ少年のよう。
 
己の無能さを自覚するだけの頭と余裕があった信雄の悲劇と、己の闇の自覚を避けていたからこそ生きて来られた無門は表裏であり、またセットのようにも見える。
 
そして、信雄もまた言うのだ。
伊賀に負け大勢の犠牲者を出し逃げ帰って来た城内で、
「わしは何と言う阿呆じゃ」と。
 
無門、平兵衛、信雄、立場が違う三人三様の、しかしながら同じ時代を生きた同じ「人間」たちの物語。
そう思えば、自分とは対称的に福々しく小綺麗な信雄の寝顔を見て、歳を尋ね「苦労が足らんのじゃないか」と言った無門が印象的に思い出される。
結局、平兵衛信雄のような身分の上の人達には、無門のような下人と比べればまだ、己の感情に素直になれるだけの『人間』として生きられる余裕があったという事なのかもしれない。
 

最初あれだけ信雄を馬鹿にしていた大膳はその後ずっと彼に仕え、後にやむ無く家康に仕えた直後、死因不明で亡くなっている。
下忍達に一斉に襲われ窮した際、「父上を越えなさるぞー!」と大きな鯉?の立物?を兜にあしらった家臣に身を挺して守られてもいた信雄
知念くんのお芝居が本当に上手くて可愛くてキャラが立っていただけに、とっくの故人の幸せを祈ってしまうくらいなのだけど。
うん、なんか良かった(笑)
 
その信雄に恨みを遺して亡くなった彼の妻、のモデル雪姫(千代御前)は、父や一族が討たれた三瀬の変の知らせを受け自害をはかったが、突如現れた白狐に救われ姿を消したという伝承もある一方、その後も信雄の正室として尊重はされ二人の子をもうけた記録も残っているそうで。
うん、こちらもなんか良かったね(笑)
 
 
日置大膳。友の左京亮を救うため瞬時に立ち上がりマッハで元の主君、北畠具教に刀をふるう場面から終始一貫、もう正統派にどこまでもどこまでもカッコ良かった。
伊勢谷さんの整った精悍なお顔を始めとしたルックスからしてベストキャスティング。
お国は、正直原作では無門がそこまで惚れるだけの説得力がいまいち感じられなかったのだけど、映画で石原さとみさんの美しさ、凛々しさが息を吹き込んだといった印象。
下山平兵衛鈴木亮平さんとは、なんと贅沢なことだろう。花子とアンからもうずっと好き。
 
そしてネズミ
彼もまたもう一人の無門である。
無門がずっと目を背け続けて来たもう一人の自分。

無門から手を繋ぐも可愛げなく突き放し、でも最後遠く小さくなりながら自分から手を「つなぐ」ネズミ
『父』から、人として生きられる名前は与えられただろうか。
子から孫へ、そして更にその孫へ、「つなぐ」のは虎狼の族(ころうのやから)の冷たい血ばかりではないという救いのある終わり方だったのでは。
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原作の終わり方は少し違うのだけど、未読の方は読み比べてみるのも楽しいかもしれない。

無門「本当は誰かに、何かに、すがりたかったんじゃないかな。すごく寂しかったんじゃないかな」と大野くんが雑誌で話していた。
それを見て改めてこれを思った。耕太などもまた。

 

と言えば、
無門はいわば大野くん主演舞台『アマツカゼ』(2008年)で哀しき宿命により人を斬りまくったで、もし忍びの国パート2があれば「弁は剣よりも強し」で刀を封印した舞台センゴクプー』(2003年)の風助になるのだという、プラスアクトでの大野くんの解釈は興味深かった。

 
 
最後に。
中村義洋監督、素晴らしい映画をありがとうございました。
 
まだまだ楽しんで映画館に通いますよ(^^♪
 
『映画「忍びの国」がロングランヒットとなり、老若男女大勢の方達に観てもらえますように』
以上、七夕の願いでした。